Prudens Futuri

「たとえ外見に現れることがなかろうとも、成功のきらめきではなく、誠実な努力と義務への献身が人生の価値を決定する」ヘルムート・フォン・モルトケ

【現代戦略思想の系譜】 「3章 ヴォーバン◉戦争に及ぼした科学の影響」

ピーター・パレット編『現代戦略思想の系譜』

「3章 ヴォーバン◉戦争に及ぼした科学の影響」(ヘンリー・ゲーラック)の要約です。

 

序 フランス陸軍の技術的・組織的発展 

 第一流の軍事国家としてのフランス陸軍

 ヨーロッパでは、マキャヴェリの時代からスペイン継承戦争の終わりまでほとんど絶えることのない戦争の状態が続いた。
 イギリスにとって有利な講和条約となったユトレヒト平和条約」(1713年)後においても、ヨーロッパ最初の大国民軍であるフランス陸軍はなお手強く、大陸の第一流の軍事国家としてのフランスの威信も実質的には衰えることなく維持された。
 フランスの200年間の軍事的進歩はその陸軍に具現されていた。

 軍隊の規模・歩兵の重要性・攻城戦の重要性

 まず第一に、軍隊の規模が大きくなったことである。われわれは後のフランス革命戦争において初めて出現した大衆軍の印象が強いために、16、7世紀の間にヨーロッパの軍隊の規模が着実に増大したことを忘れがちである。
 この軍隊の編制定員の増大は主として歩兵科の重要性が増したためであった。通常、この新たな歩兵の重要性は、火器の進歩の結果であると説明されている。しかし、これはその経緯のほんの一部にしかすぎない。
 このほかにも攻城戦の重要性が着実に増大していったこともその理由の一つであり―永久築城に対する攻囲力としても、またその防御力としても―歩兵が騎兵ではできない機能を発揮したのである。

 有産階級の貢献

 一方で、有産階級は歩兵や騎兵としての勤務こそしなかったが、フランスの軍事力に対して重要な寄与をした。その第一は、技術的奉仕、つまり砲兵と工兵の部門、また戦争に対する科学の応用であり、その第二は、軍隊の文民管理においてその優位性を示したことである。これら組織的発展がおそらく前述した進歩の最重要点であり、この2つの分野においてフランス陸軍は先頭に立っていたのである。
 

Ⅰ 文民による軍隊の組織的管理

 中央の統制なき軍隊

 ルイ14世が継承者に引き渡した軍隊はヴァロア王朝(1328-1589)の軍隊とは非常に異なっていた。組織、訓練、装備の改善は主としてリシュリュー、ル・テリエ、ルーヴォア、ヴォーバンなど一連の偉大な立案者の手によって行われた文民管理の発展によるものであり、彼らの仕事は17世紀全般にまたがっていた。
 17世紀までは軍事はもっぱら軍人自身によって管理され、中央の統制はほとんどなかった。陸軍はその統合面で著しい欠陥を示しており、国王以外に中心的な権威はなかったのである。

 リシュリューによる改革

 リシュリューは国王の権力を強化する最良の手段として、中産階級の代表たちを起用するという有名な彼の政策を軍隊に及ぼすことによって、軍隊の文民管理の基礎を築いた。彼は多くの軍監察官を創設した。事実上、陸軍大臣の要職が創設されたのは、リシュリューのときであった。

 ミシェル・ル・テリエとルーヴォアによる改革

 二人の偉大な大臣、ミシェル・ル・テリエとその息子のルーヴォア侯爵の下で、このポストの権威と、これに関連する文民管理の複雑さが非常に増大した。この大臣を中心として、完全な公文書保管書を持ち真の行政部門化された官庁が発生した。この局に対して各監察官や経理官ならびに司令官さえも、その報告と要求を提出しなければならなかった。
 また、陸軍大臣の命令はこれらの局から発せられ、きわめて重要な人々だけが大臣と直接接触することができた。この中で陸軍大臣はすべての重要な軍事の決定に関し、国王の信頼すべき助言者となった。

 軍隊機構の組織化・秩序化への努力

 近代の、あるいはナポレオン時代の軍事組織の標準から見ても、ルイ14世時代のフランス陸軍は決して均衡のとれた組織ではなかった。しかしこの軍隊は、もはや兵士を募集した大尉、あるいは大佐以外の真の統率者を知らないような各部隊ごとに分離した無統制な集団ではなかった。
 権限が明確にされて、職能の曖昧さや、数多くの元帥と中将たちの間の絶えざる対立は解消されていった。年功序列の原則も導入された。指揮の統一は一時的、例外的な”陸軍元帥”の階級を設定することによって可能となり、1660年にティレンヌがその地位についた。制服や規律が導入され、募集方法、軍隊への住宅供給と支払についても改革が行われた。
 疑いもなく、この一貫した軍隊機構の組織化・秩序化への努力は、他の領域で起こっていたことを反映したものであった。

 機械論哲学を伴う科学革命の到来

 この理性と秩序への崇拝は、デカルトが主張する数学的新合理主義と、パスカルが感知し書き記したためた”幾何学精神”の一つの表現から始まるものであり、それは機械論哲学をともなう科学革命が初めてフランスに現れた時の姿でもあった。
 あたかも18世紀、あるいは19世紀に機械を崇拝することが始まったように言われることが多いが、これは反面の真理でしかない。機械を、その精巧さや、作用する定理―たとえば、パスカルライプニッツの計算機―の天啓とともに発見したのは17世紀であった。
 リシュリュールイ14世の時代の改革者たちは、時代の精神である科学的合理主義の影響によって陸軍と文民官僚機構を近代化し、また国家と軍隊に対してある種の巧妙な機械の性格を与えようと努力した。しかしながら科学はそのほかにもより直接的に軍事に影響を及ぼしつつあった。
 

Ⅱ 科学技術者の軍事技術への貢献

 軍事に大きな変化を与えた科学の進歩

 科学と戦争はつねに密接に結合されてきた。
 16世紀の全期間と17世紀の大半を通じ、陸軍の技術部隊が実際に編成される以前には、イタリア、フランス、イギリスの多くの大科学者たちが、戦争の技術面に関連する諸問題に注目していた。
 1600年までには、部外の専門家の仕事を、将校自身にある種の技術訓練を施して補わなければならないことが一般に理解されていた。このように軍事に大きな変化を与えた科学の進歩については、築城と砲の変遷を簡単に見ていくことで最もよく理解することができる。

 築城術の発達

 築城の術、あるいは科学は、マキャヴェリの時代のイタリア戦争に引き続くこの世紀に入り激しい革命に直面した。フランス軍砲兵は―初めて真に有効な攻城砲を使用して―イタリアの諸都市の高い城壁を持った中世的城塞をいともたやすく破壊してしまった。
 これに対してイタリア人は城郭―城塞の主要な囲み―の新しい方式を発明した。これらの要塞を設計することは、相当の数学と建築学の知識を必要とする一つの学術となってきた。何人かの第一級の科学者たちはこの新しい応用科学分野のエキスパートになった。(ニコロ・タルターリャ、シモン・ステヴァン、ガリレオ・ガリレイ

 ブレーズ・ド・パガン伯爵

 また、築城理論の発展において、ヴォーバンの偉大な先駆者は彼の師ともいうべきパガン伯であった。ブレーズ・ド・パガンは理論家で、実際の技術者ではなかった。それでも彼は17世紀の後半にフランス人がつくった要塞の方式に関して、いくつかの重要な改良を加えることに成功した。
 ヴォーバンの有名な「第一方式」は、わずかに改良を加えた点と、地形に適合させる柔軟性をもって実施されたほかは、実質的には、パガンの方式にほかならなかった。パガンの主要な考え方はすべて単一の基本的な考慮、攻防両面における砲火の効力の増大から出発している。パガンによれば、稜堡は城塞の輪郭の中で最も重要な部分で、その位置と形状は城郭の内部よりもむしろ外部を重視して決められた。

 科学技術と軍事的要求の相互作用

 砲の発達についても16世紀と17世紀におい科学技術と軍事的要求との間に、同様な相互作用があった。近代物理学の基礎は、基本的な弾道上の問題解決から生まれた副産物といってもおそらく過言ではあるまい。ガリレオの弾道学研究の各段階に産み出されたこれらの発見(慣性の法則、自由落下体の法則、速度の構成の原則)に基づいて、後世の人々は古典物理学体系を確立したのである。
 17世紀の終わりまでには、「新しい学問」の進歩は、技術的軍事教育の最初の実験が実を結び、イギリスやフランスの政府が科学研究の援助を与えるまでに推進された。
 

Ⅲ 科学技術の軍事文献への反映とヴォーバン

  古代と近代

 しかしながら当時はなお、古代が、軍事理論の広範な側面や軍事的才能の秘訣に関するすべてにわたっての偉大な教師であった。ヴェゲティウスやフロンティヌスは必読の書と見なされていた。一方で、近世の戦争術に関する最も重要な著書は、はっきりと次の二つに区分することが出来る。

 国際法の影響

 その一つは国際法に関する先駆的な著作であり、もう一つは軍事技術に関する先駆的な著作であった。グロティウスのような人々が、国際的無政府状態と無制限的破壊の戦争に対する反対の先頭に立った。
 彼らの中心的原則は、各国は平和時においては相互に最善を尽くすよう努力し、戦時には悪を最小限にとどめるよう努力しなければならない、というものであった。国際法の原則が17世紀の終わりまで戦争の様式や方法に否定できない影響を及ぼしていた。たとえ国際法が政治的没道徳性に終止符を打つことが出来なかったとしても、少なくとも戦時行為を多くの細かい掟や禁止事項によって枠の中に閉じ込め、18世紀の戦争を比較的人道的でよく規制されたものにすることに役立ったのである。

 セバスチャン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン

 第2の区分の軍事技術に関する著書の中で、ルイ14世統治時代の大軍事技術者、セバスチャン・ル・プレストル・ド・ヴォーバンの著作ほど、大きな影響を与え、名声を博した本はない。攻城法や要塞防御についての専門的な著述によって、彼が最も大きな影響力を持つ軍事著述家の一人として認められるに至ったのはなぜであろうか。ヴォーバンの著述は、18世紀には、戦争の重要な側面についての権威ある教科書であったためである。
 われわれには17世紀の後半から18世紀を通じて、戦争は果てしない攻囲戦の連続以外の何物でもなかったように思われる。そしてほとんどつねに戦役の焦点は攻囲戦となった。野戦は攻囲されている要塞を救援する必要が生じた場合、または救援軍を追い返す場合にのみ起こり得るものであった。少数の例外的な指揮官を除いて、すべての指揮官の戦略的創意は、一般に受け入れられていた攻囲戦の原則で制約された。

 時代を代表する人物としてのヴォーバン

 しかし、ヴォーバンの栄光と声望をもたらすうえで、これらの技術的著述が果たした役割はごく一部にすぎなかった。彼の個人的な性格、国家の見識ある公僕としての長い経歴、彼が選んだ専門以外での軍事上の進歩に対する数々の貢献、公共の福祉への彼のリベラルで人道主義的な関心などは人々の想像力に大いに訴えるものがある。
 要するに、尊敬すべき公僕、組織の天才、啓蒙的改革者としてのヴォーバンの中には、無数のそれほど偉大ではない人々の努力を通して新しい国民国家を形成してゆくうえで結合した特質のすべてが具現されている。

 「幾何学精神」という時代精神

 さらには、彼の技術的知識、応用数学の才能、正確さと秩序への愛好、科学的知識の持つ新しい重要性を象徴するのによりふさわしい。デカルト派の合理主義、平戦両時の社会における応用科学の役割、この時代の「幾何学精神」、これらの全てが彼の設計したがっちりした要塞の輪郭を見てもわかるようにこの人物の中に具体化されていた。
 

Ⅳ ヴォーバンの生涯

 軍隊へ 

 ルイ14世につかえた大臣や将軍のなかで、ヴォーバンほど長く、活動的な経歴を持った者はほとんどいない。1633年に生まれた彼は、有産市民階級と下層貴族の中間の曖昧な階層の出身であり、中途半端な教育を受けた。
 1651年、コンデ公の軍隊に士官候補生で入った。当時、コンデ公は反乱を起こしていた。その後、1653年国王の軍隊に入り、2年後に”王室侍従技術官”へ進級し、まもなく大尉職の地位を得た。

 要塞総監

 1659年~1667年の間に、ヴォーバンは王国の要塞の修理改善に懸命に従事した。1667年、遺産継承戦争において、攻城技術の名人として目覚ましい活躍をし、ルーヴォアに認められて、陸軍省の全ての技術的業務を司る”総監”となった。この時以来、平時においては不断の監督、修理工事、新しい築城、戦時には攻囲戦の再開や、さらに多くの地域の獲得、そして再び次の戦争までの合間の平和な時期にはそれ以上の熱心な要塞建設が、ルイ14世に仕えたヴォーバンの生涯の絶え間のないリズムとなった。

 余暇の無い生活

 彼は死ぬまでの間、終始移動する生活を続け、余暇はほとんどなかった。彼は生涯の大半を、文化や刺激の多い中心地から遠くへ離れた国境の村の宿で過ごし、そこで数えきれないほどの仕事に従事した。
 彼はその技術作業の間にも少しでも自由な時間を見出しては公式な書状や他の執筆に専念した。彼は専門分野とは間接的な関係しかないような数多くの異なった軍事・非軍事の諸問題について関心を示している。

 人道主義的な関心と科学的精神

 彼はこれらをその書状の中で論議する一方、その他のものについても『余暇』と題する原稿12巻にもなる長い覚書の中で扱っている。
・ 陸海軍の諸問題
・ 内陸水路や大洋間のラングドック運河
・ 再植林計画の必要性
・ アメリカにおけるフランスの植民地の状態を改良し得る方法
・ ナントの勅令廃止の悪結果
・ すべての階級に対して開かれた功績に基づく新貴族を創設することの利益
 このヴォーバンの著作にある程度の統一性を与えているのは、すべてに見られる人道主義的な関心とそこに現れている科学的精神である。ヴォーバンの提案は彼の直接の経験と観察に基いたものである。彼の職業的義務を遂行するための絶え間のない旅行は、祖国と祖国の要求を知る上に絶好の機会を与えたのである。

  ヴォーバンの業績:応用化学と応用数学

 これらの考察は彼の評価についての問題に答えるうえで助けとなる。ヴォーバンの業績は応用化学と簡単な応用数学の中にある。ヴォーバンの科学的独創性について主にいえることは、誰も本気で試みようとしなかった分野に定量的方法の範囲を広げようと努めたことである。
 実際に、彼は体系的気象学を創始した者の一人であり、さらに彼は統計学の分野における草分けの一人でもある。ヴォーバンは、軍事技術者としての彼の仕事の副産物である骨折って収集したこの種の情報資料により、軍事問題に集中したのと同様な批判的評価の精神、論理・秩序・能率を愛する精神を、非軍事問題にも及ぼそうと努めた。 
 

Ⅴ ヴォーバンの軍事改革提案の広さ

 軍事改革者としてのヴォーバン

 ヴォーバンはこの世紀における軍事改革者の中で最も根気強い人物の一人であった。軍事社会、あるいは軍事組織と軍事技術に関する差し迫った問題で、ヴォーバンが創造力に富む提案ないしは全般的な再編計画を提示しなかったものはほとんどない。
・ 技術者を常備軍の一兵科とすべく努力
・ 技術部隊に対する科学教育
・ 砲兵科の改良
・ 跳飛射撃の発明

 陸軍全般への改革の提案

 ヴォーバンの書簡や『余暇』の中には、歩兵や陸軍全般に関する根本的改革を示唆しているものが見られる。
・ 燧石銃装備と槍の廃止
・ 銃剣の発明
・ 兵士の生活環境や福祉の改善
・ 兵士の募集と給与の方法
・ 兵営制度の創設
・ ダンケルク港の改良
・ ガレー船の役割の拡大
・ 通商破壊戦の主張
 

Ⅵ ヴォーバンの攻城術と築城術

 戦争術に対する最も重要な貢献

 ヴォーバンが戦争術に対して最も重要な貢献をしたのは当然ながら彼自身の専門、すなわち攻城術と築城術にあった。当時広がりつつあった戦争行為を緩和しようという新しい風潮と相まって、彼の攻城術における新機軸が要塞の攻略を秩序立て、とくに攻囲軍の損害を最小限にするように計画されていたことは、ヴォーバンが無用の出血を嫌っていたことの特質を示すものである。
 ヴォーバンの攻囲方式は、ほとんど変化せずに18世紀中も踏襲された方式であり、高度に形式化され時間のかかる方法であった。ヴォーバンの攻囲術体系の基本的な特色は、塹壕、土塁、臨時的な構築物などを利用して攻撃部隊を掩護する点にあった。

 ヴォーバンの築城に関する議論

 ヴォーバンの築城についてはかなりの議論が行われてきた。つまり第一に、彼の築城方式は彼の独創的なものであったのかどうか、第二に、はたして彼はフランス防衛のための基本計画に基づいて要塞を構築したのかどうか、という問題である。
 ごく最近までヴォーバンの最も熱心な賛美者さえ、彼には築城技術者としての独創性はほとんど認められないし、また彼がパガンから受け継いだ要塞の設計にはほとんど何も付加していないという説に同意していた。

 築城の各方式

 この見方はごく最近まで有力であったが、最も新しいラザール中佐の本格的な研究の結果では、ヴォーバンの独創性についてのいくぶんかは不利な見解が好意的に変わってきた。ヴォーバンが要塞地帯の大部分に採用した第一方式では、パガンの設計をほとんど修正せずに用いた。
 第二方式はベルフォールブザンソンで初めて用いられたが、それ以前の方式を発展させたものである。多角形の構造は踏襲されたが、中堤(稜堡間を繋ぐ塁壁)が延長され、これまでの稜堡自体も突角部で小さな堡塁または塔にかえられ、これらは濠の中に構築されたいわゆる分離稜堡によって掩護されていた。
 いわゆる第三方式は第二方式の変形にすぎない。

 第二方式における根本的改良

 われわれの注目を引くのは第二方式である。この方式でヴォーバンは重要な、むしろ革命的とさえいえる改良を行っている。すなわち、彼は主城郭にたよる要塞防御の思想から脱却して、縦深防御への第一歩を踏み出したのである。
 彼は主防御線を危険にさらすことなく設計を地形に適合させる新たな柔軟性を生み出した。以前の場合はすべて王冠堡または突角堡を突き出すことによって地形に適合させていた。もしこれらが奪取されると、主防御線が直接に脅威を受けた。第二方式は後に退けられたが、18世紀末に至って復活が見られるのである。(モンタランベールの改革

 ヴォーバンの築城思想

 最近まで存在していたヴォーバンの築城思想についての混乱は、彼自身が永久築城術についての論文を一つも書いていないし、また築城術については要塞の攻防術について書いたような体系的な説明をしていなかったことから生じたものである。
 しかしながら、築城の基礎的原則を取り扱っている二つの論文の原稿が残っており、これらはまさしくヴォーバンの影響を直接受けたものである。まず第一に、要塞の各部分はそれぞれ堅固でなければならない。その防護は露出した拠点(稜堡)の頑強な構造と中堤の十分な掩護によって行わなければならないとし、一般的にこれらの条件は次のようなことで満たされるであろうとしている。
(1) 城郭のどの部分も強固な稜堡によって側面を防護されていること。
(2) これらの強固な稜堡はできるだけ大きいこと。
(3) これらの稜堡は燧石銃の射程以上に離れていないこと。
 これらの強固な稜堡は、その側面を守る部分の稜堡によって防護される部分にできるだけ直接正対するように、言い換えれば、その側面を守る部分は防護されている部分からだけ見えるように設計すべきである。永久築城の構築上の実際的問題は、この基本原則を破らないように稜堡の設計をいかにその場の地形の状態に適合させるか、ということであった。これは明らかに、技術者に広い範囲の自由と素晴らしい柔軟性を任せるものである。
 

Ⅶ 戦略家としてのヴォーバンについての論議

 ルイ14世の要塞築城計画

 ルイ14世の要塞築城計画が、はたしてどの程度まで何らかの統一性のある戦略構想によって導かれたのか。また彼にそのような構想があったとすれば、それはヴォーバンの才能によるものであったとする証拠があるのであろうか。
 この二つの質問は非常に重要なものであるが、回答することは容易なことではない。ヴォーバンの専門分野において彼の権威に挑戦し得る者がいたであろうか。
 その答えは国王その人がいたということである。たとえヴォーバンがフランス防衛の基本計画を持っていたとしても、おそらくそれは完全に実行され得なかったであろう。

 ゼラーとラザールの評価

 果たして、ヴォーバンは本当に基本計画を持っていたのであろうか。この問題についてはまったく意見が分かれている。 
 ガストン・ゼラーはルイ14世とヴォーバンがまったく白紙で始めたわけではないこと、また彼らのいずれも先人の築城した要塞を考慮せずに純理論的な防衛計画など実施できるはずがないことを指摘している。これらの要塞は一つのシステムを成していたわけではなく、一つ一つが分離した単位として重要であっただけである。要塞の全体的な価値は相互関係の位置によらず、むしろ要塞の数によるものであった。
 ゼラーとラザールの二人は、ヴォーバンの全般的な計画はこれら数多くの要塞の中から取捨選択する過程で生じていたとする見解では一致していた。 しかしラザールはゼラーよりもはるかに高くヴォーバンを評価しており、要塞の戦略的役割について総体的な概念を持った歴史上最初の人はヴォーバンである、という見解をとっている。

 前衛方陣の設定

 想起されることは遺産継承戦争の結果、スペイン領フランドルにその領土を拡張したことである。ヴォーバンの最初の大仕事は新しく獲得した地域を強化し要塞で再び固めることであった。1673年、ルーヴォアに送った手紙の中で、前衛方陣(領土の外郭)の設定を主張した。1675年9月彼は、コンデ、ブーシュン、ヴァランシェンヌ、カンブレの攻囲を進言した。1677年8月のナイメーヘンの平和条約によって、フランスは前衛方陣にほぼ近い国境を獲得した。  

 1678年の覚書における変化

 一方で、ヴォーバンは1678年の覚書の中で、歩兵の戦闘隊形をまねて、国境の拠点を二つの要塞線に絞り、各線が約13箇所の拠点からなるようにし、これを北部国境に沿って延長するなら国境の要塞化は十分であると結論付けている。また、国境から遠く隔たっていて二つの線に含まれていないすべての要塞を廃棄することを主張した。
 この有名な覚書にはまた将来の可能な征服地についての考察も書かれているが、それはヴォーバンが単なる地域的な防御線の修正以上の野心的な構想のための準備をしようとしていたことを示している。

 深刻な財政の逼迫と労働力の供給不足

 この中で、ヴォーバンの考え方の一連の変化を読み取ることは難しくない。それは主としてルイ14世の治世の後期において彼が働かなければならなかった状況の変化によるものである。財政の逼迫と労働力の供給不足がしだいに深刻になっていったので、ヴォーバンとしても要塞の新設より、とは言わないまでも、それと同じくらい要塞の廃止の方に力を入れなければならないように仕向けられていった。

 防勢的思想への順応

 同時に14世の軍隊はますます守勢的に使われつつあり、ヴォーバン自身もしだいに防勢的思想に順応していった。1696年に書いた覚書の中で、彼は要塞を補強し、水路を強化するため、築城陣地”濠をめぐらせた陣地”の創設を強調した。
 要塞の外郭の向こう側に精巧に工事した土塁によって防御された陣地に小兵力を配備すれば、愚かにも直接要塞にぶつかろうとする敵のどんな攻囲部隊も十分に妨害できるだけでなく、敵により広い正面をとらせ兵力を分散させることができた。これら2つのこと―第1に、築城陣地で補強された連続する防衛線の強調、第2に、1678年における第2要塞線の犠牲の奨励―を合わせて考えると、ヴォーバンの考え方はますます薄い防衛線を好む方向に進展していったようである。

 晩年の傾向:要塞よりも軍隊を重視

 このことは、この偉大な技術者が晩年になってしだいに要塞よりも軍隊そのものを重視するようになった証拠と見なしてもけっして行き過ぎではない。このように彼の思想はギベールの考え方、すなわち一国の真の防衛は要塞ではなく、軍隊であるとし、軍隊が国家という要塞の活動的で柔軟な幕壁を構成するのに対して、要塞陣地はその中の単なる稜堡にすぎないとする思想にきわめて接近していったように思われる。
 

 番外編ー用兵思想家たちの言葉

 ヴォーバン
 「わが国王はその領土の外郭を保ちやすくすることについていやがうえにも真剣に考慮すべきである。この敵味方の要塞が相互に乱雑に入りまじった混乱状態、まったく私にとっては困ったものである。要塞が一ヵ所あればよいところに三ヵ所維持しなければならない」
 
 (ライスワイク平和条約締結直前)「もしわれわれが再びこれら(ストラスブール及びルクセンブルグ)を獲得できなければ、われわれは永久にライン河を境界とする機会を失うであろう」