Prudens Futuri

「たとえ外見に現れることがなかろうとも、成功のきらめきではなく、誠実な努力と義務への献身が人生の価値を決定する」ヘルムート・フォン・モルトケ

【現代戦略思想の系譜】 「2章 一七世紀の軍事革命 ◉マウリッツ、グスタフ・アドルフ、レイモンド・モンテクッコリ」

ピーター・パレット編『現代戦略思想の系譜』

「2章 一七世紀の軍事革命 ◉マウリッツ、グスタフ・アドルフ、レイモンド・モンテクッコリ」(ガンサー・E・ローゼンバーグ)の要約です。

 

序 近代初期ヨーロッパにおける真の「軍事革命

 いつ「軍事革命」が起きたのか

 近代初期のヨーロッパにおいて「軍事革命」があったという考えは一般的に受け入れられるようになってきている。しかしそれがいつ起こったかの正確な時期については、意見が一致していない。
 16世紀に入り、密集戦闘隊形による戦術的な不活発さ貧弱な兵站城塞の強化という軍事環境の中で「軍事行動を考察する方法としての『戦略』という抽象概念をほとんど完全に持たないまま、戦争術は硬直して動きのとれないものになっていった」。

 戦争を長引かせた軍隊の傭兵的性格

 しかし、おそらく一貫した軍事作戦の指導を妨げた最大の理由は、当時の大部分の軍隊が有していた社会的性格に見いだされるであろう。戦術的防御が優越し、新しい城塞が強固になり、兵員が傭兵的性格を備えていたことが、ヨーロッパにおける戦争を長引かせ勝負がつきにくくなった理由を説明している。
 こうしたなかで、国家政策の信頼するに足る道具としての軍務を遂行することの出来る効果的な軍隊をいかに整備するかの問題は、すでに15世紀末から認められていた。

 マキャヴェリの示唆

 そして間もなく、古典文明への関心の復興が軍事理論とその実践にはっきりした影響を与え、ローマ人の軍事組織・方法に関する研究は、改革者にとって発想の源泉になった。
 一方で支配者たちは臣民を武装することに躊躇し、当時の複雑な武器操作と戦術を体得できるのは傭兵のみだと信じていた。 この市民軍召集に時間がかかり野戦には不手際で、彼らは主として自分の街の防衛にのみ有用であったが、複雑かつ長期にわたる作戦には不適当であった。
 たとえそうであっても、階級組織の指揮系統機能的な任務付与不断の訓練によって達成される軍事能力などをマキャヴェリが強調したことは、八十年戦争中のオランダに、戦闘効率が高いばかりでなく、よく統制された軍隊が出現したことに、かなりの影響を与えた。

 オラニエ家による改革

 オランダのオラニエ家の諸侯は、この時代の他の教養ある軍人と同様に古代の軍事著作に通暁していたのみならず、マスケットと槍を組み合わせた戦術からできるだけ最大の効果を得るには、新しい戦闘指揮の方法と、よりいっそうの訓練とを結合した新しい統制が必要であることをも認識していた。
 最大の火力と機動性を発揮するため、歩兵はしだいに小部隊の集合のかたちをとり、将校にはこれまでよりもいっそうの主動性戦術技法を発揮することと、同時に全般的戦闘計画に従うことが要求された。

 プロフェッショナルな兵士と指揮官

 ローマの戦術モデルの純機械的模倣だけでは十分ではなかった。この問題を解決するため、ナッサウ家の改革者たちは、軍事専門技術と社会的、精神的な価値観を兼ね合わせた新しいタイプのプロフェッショナル兵士と戦闘指揮官をつくったのである。
 こうした動きを促進したのはユスツス・リプシウスに負うことが多く、彼の著書『政治学』はオランダの改革の知的基盤と見なされている。リプシウスは戦争を制御されない暴力の行使ではなく、有能で正当性を備えた権力者が国益追求のために指導する整然とした力の行使であるとみなした。
 彼が理想とする将校像は、個人的な栄誉の追求にかられることなく、服従するだけでなく指揮することを学び、自らをまず何よりも社会に奉仕する専門家と見なす人物であった。そのような将校が、部下に良き模範を示すのみならず、不断の教練と訓練によって部隊を効果的かつ規律ある戦闘集団に転化せしめるのである。

 「規律」の重要性

 それ以来、規律がカギを握る重要な要素となり、情勢の変化のためにオラニエ家の改革者たちが市民軍の構想を捨てざるをえず、長期雇用する専門的な傭兵制度を採用するようになってからも、彼らは規律を重視し、専門の将校、教練、訓練を通じて規律を保たせたのである。
 これらの発展が戦略・戦術に実質的な影響を与えた。技術よりもむしろ社会的・道徳的側面が近代初期において新しい軍隊創立に際しての基本的パラメータを提供した。
 規律ある常備軍では、指揮官が計画を立案し、その計画に基づいて持続的な作戦を実行することが可能になったのである。

 グスタフ・アドルフとモンテクッコリ

 グスタフ・アドルフとモンテクッコリは、よく統制のとれた軍隊が現代戦争の基本的要求であることを確信していた点で、「オランダの改革者たちの弟子」であった。
 なお、ヨーロッパ常備軍の発展は二つの独立した系列から出現していることに注目する必要がある。オランダのモデルが広く模倣されたのはもちろんだが、トルコとの長期にわたる戦いに由来する「帝国」モデルも存在した。
 スウェーデンとトルコの両方との戦闘を経験したモンテクッコリは、結局彼の著書の中で二つの系列を融合して述べ、近代初期のすべての戦略的・戦術的・管理的・政治的・社会的次元で戦争現象を捉えようと体系的に試みた最初の人物である。

 真の「軍事革命

 かくして、もし「軍事革命」という言葉が単なる新しい武器や戦術隊形の採用以上の意味を持つものであり、軍隊や戦争の性格の完全かつ基本的な転換をも含むというのであれば、そのような転換は彼らの時代においてようやく生起したのである。やっとこの時代になって階級組織的な従属関係、規律、社会的義務の原則に基づいた近代的軍隊が、現在まで保持しているような形をとるようになった
 この変革は三人の指揮官たちの努力と実践と理論によって大部分が達成されたのである。この変革こそが実際に真の「軍事革命と称し得るものである。
 

Ⅰ オランダ独立戦争とマウリッツの戦術・軍制改革の背景

 ナッサウ・フォン・マウリッツ

 ウィレム沈黙公の二番目の息子、ナッサウ家のマウリッツの名は、何よりもまずオランダがプロフェッショナルな陸軍を編成したことを想起させるものである。マウリッツは著名な行政官、戦術家そして攻城戦の権威であったが、真の偉大な戦略家としては位置づけられていない。
 それはそれとして、雑多な信用の置けない傭兵とパートタイマー的市民兵の軍隊の質を変えることに成功した点で、彼は現代戦の発展に恒久的な地位を占めるに十分であろう。もちろん、1589年から1609年における軍制改革の実行は共同研究の産物であった。

 強固なシビリアン・コントロール

 マウリッツの用心深さと慎重な戦略もまた、連邦共和国の複雑な政治的、軍事的な状態を反映し、彼が置かれた独特の立場から生まれたものである。1588年、21歳の時に「連邦共和国の陸・海軍司令長官」に、また「ブラバント・フランドルにおける陸軍大将」、すなわち両州の野戦軍主力の司令官に任命された。
 しかし、彼はつねに強固なシビリアン・コントロールに置かれていた。州の特殊性は軍隊の発展と、ときには作戦をも抑制し、連邦議会の特別委員会たる国務会議はつねに軍事を調整し、特別戦場委員を通して作戦を監視した。
 この取り決めにはかなりの軋轢の種があったにもかかわらず、長い間かなりうまくいっていた。この頃は政治家も軍人も、傭兵と市民軍との非効率な混成軍を、老練なフランドルのスペイン軍を駆逐する能力を備えた軍隊に改革する必要があるという点で合意していた。
 低湿地帯での長い紛争は民族解放戦争であると同時に内戦でもあり、オランダが当時の軍事大国と対決しながら生き延びられたのは、彼らが異常なほどの努力をしたためでなく、オランダの地形のためであり、またスペインから長期間にわたる大規模な作戦を実施する上で困難に直面していたためでもあった。
 

Ⅱ マウリッツの戦術・軍制改革とその限界

 軍制改革 

 軍制改革の発想は、16世紀の戦争を遂行する必要から生じたもので、古典的なモデルを参考とした。新部隊の際立った性格は、知的なリーダーシップ、部隊に対する忠誠心、戦術的展開と機動性の改善であった。
 下士官の主体はフランス人、ドイツ人、イギリス人およびスコットランド人で若干のスイス人やスウェーデン人、デンマーク人も含まれていた。

 「教練」の発見

 マウリッツは、兵員の行状に対して厳しい軍規をもって臨んだが、彼はまた、規律を身につけさせる方法としての教練を再発見したのである。兵員はローマ軍のモデルから直接採用した日課によって、また命令用語は、オランダ語、英語、ドイツ語に翻訳されて毎日訓練された。軍隊における教練の再導入はオラニエ家の改革の本質的な要素であり、現代軍事組織に基本的な貢献をなした。教練と部隊団結が進むにつれて、戦闘効率が高められた。日常の武装訓練は小銃と槍の協調を改善し、よりいっそう正確な部隊の機動演習が可能になった。
 また、1594年に反転行進、いわゆるギリシャ劇の唱歌舞式方法による新型射撃方式の採用によって火力の比率が高められた。オランダの戦術システムはつねに訓練を行い、また下級部隊に従来より多くの独立的戦闘行動をとらせたので、よく教育された多数の下級将校を必要とした。これがマウリッツが現代ヨーロッパ将校団の始祖と言われるゆえんである。

 現代の統帥構造の基礎 

 より重要なことは、彼が軍人の基本的気質を変化せしめたことである。マウリッツは指揮官を、国家が裁定した将校任命辞令によって権威付けられた公的責務を負うものとして見なした。これは軍隊に確立された階層内での絶対服従の概念と結合され、現代の統帥構造の基礎を与えた。
 これら新戦術システムは時に批判されることもあったが、オランダは2つの主要な戦闘、1597年のトウルノの遭遇戦、1600年のニューポールの戦いで新戦術システムが有効であることを十分に示した。

 攻城戦に関する貢献

 攻城戦へのマウリッツの貢献は疑う余地のないことである。彼は攻城砲を増強し、砲兵、工兵および補給科に対して軍内の永続的役割を付与し始めた。(軍隊による労務の導入、指揮官自身が作業をして模範を示す、シャベルの標準装備化、ボーナスの支給)これによりマウリッツは迅速に攻城戦線を確立することが出来たし、必要な時には野戦築城を急増することもできた。

 戦略的成果

 戦略に関しては、目標を限定し、北部七州の領土回復を求めた。さらに彼は、戦略的要点を奪取する作戦によってこの目標を達成しようし、敵の主力部隊を撃破することは好まなかった。彼の目覚ましい成果は、奇襲と迅速な攻囲作戦、さらに敵の守備兵に対する有利な条件付き降伏の提示と相まって達成された。
 

Ⅲ グスタフ・アドルフの改革

 オランダのシステムを採用する各国

 ニューポールの戦いの後、オランダの戦術システムが広く注目を引いた。連邦共和国軍はいまやヨーロッパの最良の軍隊と見なされた。一般にオラニエ家による改革は新教国にほとんど躊躇なく受け入れられた。
 スウェーデンではグスタフ・アドルフが「最初からマウリッツ公の方法を確立し」、これに修正を加えて攻勢的機能を強化した。

 衝撃力と火力を統合する価値を十分に理解した最初の軍人

 グスタフは衝撃力と火力を統合する価値を十分に理解した最初の軍人であった。そして彼は新戦闘方法と武器の改良により衝撃力と火力の効果を増強した。このすべての面で、グスタフはオランダで専門知識を学んだ将校たちの支援を受けたのである。
 マウリッツと同様に彼が歴史に占める地位は、なによりも彼の戦術・軍制上の確信によるものである。

 慎重な将軍による改革

 そして彼もまた慎重な将軍であった。グスタフ・アドルフはわずか17歳で1611年にスウェーデン王を継承したときに、その軍隊が「訓練もよく行われておらず、規律も乱れた」貧弱な組織の軍隊であることに気が付いた。
 彼はオランダの軍制改革の知識を持っており、軍隊の欠陥を明確に認め、部隊を再建することが最優先事項となったのである。

 カントン制度

 彼は1625年に徴兵方法の全面的検討を開始し、カントン制度が導入され、ヨーロッパでは初めて長期勤務国民軍を作り出した。しかし、あくまでこの制度は本土防衛の目的で作られ、本国兵は後方連絡線を防衛する戦略予備としてとっておかれた。
 グスタフ指揮下の内、スウェーデン兵はわずかに10分の1であり、残りは外人部隊であった。

 機動と火力の勝利

 外人部隊の多くがスウェーデンの戦術によって訓練され、1631年のブライテンフェルトの戦いで初めて大規模にテストされた。その戦いは「槍の数と槍の衝撃力に勝った機動と火力の勝利」であって、他のほとんどのヨーロッパ諸国はその戦法を変更せざるを得なくなった。
 グスタフの戦術システムは各兵種協同の攻勢行動に力点が置かれたが、複雑でグスタフですらコントロールするのは難しかった。戦術的には効果的であったが、スウェーデンの財源の少なさから兵站的に脆弱であり、1630年の段階で規律は腐敗し始めていた。
 

Ⅳ 三〇年戦争におけるグスタフの戦略とその限界

 三〇年戦争

 三〇年戦争は、最初はカトリックプロテスタント間の戦い、またドイツにおける皇帝権力をめぐる戦いとして始まったが、グスタフが一六三〇年の夏にオーデル河口に上陸したときはすでに国際的戦争になっていた。フランス、イギリス、デンマーク及びドイツの弱小のプロテスタント諸侯のゆるやかな連合は、手強い戦争事業家アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインカトリック同盟軍を率いるきわめて有能なヨハン・ティリー将軍指揮下の皇帝軍によって粉砕された。
 王はバルト海ドイツ帝国の覇権が及ぶことに脅威を感じ、スウェーデン議会にドイツに遠征しようとしていることを告げた。王はドイツ諸侯からの大きな援助を期待したが、北部ドイツの主要なプロテスタントの支配者ブランデンブルクザクセンの選帝侯は中立的立場をとることを決定した。グスタフは長期戦になりかねない戦略をとらざるを得ず、兵站と祖国への後方連絡線を守る必要性とデンマークやロシアの潜在的脅威に対する懸念とが彼の戦略に厳しい制約を課すことになった。

 マグデブルグの略奪

 グスタフは、オーデル河口沿いのはるか東方から作戦を開始した。彼がしだいに支配地域を拡大するにつれて、彼の野戦軍を分散させ、こうしたゆっくりした事態の進行は二人の選帝侯の慎重な中立を動かすことに失敗した。彼の対抗者ティリーはマグデブルグで反乱に直面しており、もしグスタフが速やかにエルベ河に前進し、早期に勝利したならば、プロテスタントの協力を結集させ得ただろう。
  一六三一年三月上旬にティリーは、グスタフと戦うために一万二〇〇〇の兵力を動かした。しかし、グスタフは一万八〇〇〇の兵力を持ちながら戦いを避けたのである。それは彼の軍事経歴上の「最も明白な大失策の一つ」であった。グスタフが用心深く起動している間に、皇帝軍は五月二〇日、マグデブルグを占領し、占領に伴った略奪は一七世紀においてさえも有名な事件となった。

 ブライテンフェルトの戦い

ティリーがザクセンに侵攻したことが、やっとのことで選帝侯をグスタフの支援に踏み切らせた。一六三一年九月一七日両軍主力はブライテンフェルトで衝突した。グスタフは著しい勝利を収めたが、勝利の成果は十分利用されず、敗残兵を即時追撃することはしなかった。一部の批評家たちは、グスタフが戦果拡張をしなかったことを批難してきた。
 ブライテンフェルトの戦いでグスタフがティリーを粉砕することに失敗したために、敵は力を回復し、敵の新手の部隊、とくにヴァレンシュタインモラヴィアで驚くべき早さで召集した強力な部隊と直面することになった。
 彼の敵ヴァレンシュタインは、スウェーデン軍の弱点を完全に理解していた。その弱点はザクセンとの同盟であった。ヴァレンシュタインスウェーデン軍の戦法を分析し、スウェーデンの戦術システムは戦場の機動に依存していることと、安全な基地と後方連絡線を維持している間に戦闘を遂行するのが彼らの戦略システムであることを知っていたのである。

 リュッツェンの戦い

 いまや王の状況はきわどい状態になった。グスタフはヴァレンシュタインを南に引き付けるために、ウィーンへの進撃をもう一度開始したが、ヴァレンシュタインはこれを無視し、ザクセンにゼンしてライプチヒを奪取、略奪を始めた。これは間接アプローチの戦略の範例である賢明な動きであった。グスタフは急いで北に転じ、二〇日間に二七〇マイルも前進した。
 一一月になり、ヴァレンシュタインは冬季のために軍隊を解散させようとした。これを知ったグスタフは攻撃しようと決心した。一六三二年一一月六日、グスタフはザクセン同盟軍の支援を受けずにリュッツェンで彼の最後の戦闘を行った。戦闘中にヴァレンシュタインは増援を受けたが、グスタフはカトリック主力を撃破した。しかし彼は騎兵とともに突撃を行い戦死してしまったのである。
 グスタフはこのとき三七歳で軍人としての成功の頂点をすでに過ぎていたが、輝かしい経歴の軍人にとってふさわしい最期であった。しかし、たとえ彼が生き残り、グスタフに対する同盟諸国の忠誠が得られたとしても、さらに、再度の戦いで勝利を得たとしても、戦争を終結させることはできなかっただろう。彼の戦略は「この時代の戦略を乗り越えるというよりもむしろその時代の戦略の典型」に過ぎなかった。

 偉大な指揮官

 たとえそうだったとしても彼は、30年戦争の傑出した指揮官であった。適切な状況下で戦闘を敢行する彼の意志によって裏付けられた、陣地取りと機動の戦略は、フランス革命とナポレオンが出現するまで不動のものであった。
 彼の管理面、戦術面および作戦面の実践力は広く模倣され、この時代の如何なる将軍たちよりも、彼は戦闘におけるリーダーシップを構成する各要素を体得していた。彼にも錯誤があったにも関わらず、グスタフは理論家であるよりもむしろ偉大な指揮官、戦いの実行者であった。ナポレオンは偉大な将軍のリストに多くの人を掲げなかったが、グスタフをこのリストに掲げ、彼の価値を認めていた。

 

Ⅴ モンテクッコリの生涯と戦争

 総合的分析を試みた近代最初の軍事理論家

 モンテクッコリの真の重要性と現代戦略思想の発展への偉大なる寄与は、彼の著作の中にある。彼は戦争のあらゆる局面について総合的に分析しようと試みた、近代最初の理論家であった。
 モンテクッコリは当時の「法則」「体系」の考え方を重視する傾向をその著書の中に反映させようとして、普遍的パラダイムつまり経験から導き出される科学的、軍事的、政治的なあらゆる知識の統合を求めたのである。彼は、彼の原則が正しく適用されれば作戦行動は予見し得るし、費用と損害も減らせるものと期待していた。

 機動戦の達人

 モンテクッコリの著作が非常に広く受け入れられた理由は、彼が機動戦の達人として名声が高かったからである。モンテクッコリは彼の生存中に、臆病な指揮官、「遅延者ファビウス」としてしばしば攻撃されたが、そのような非難を彼は意に介さなかった。
 しかし、消耗戦略は彼の唯一の戦略的方法ではなく、好ましい条件の下では、彼は戦うことを厭わなかった。モンテクッコリは、戦争には消耗戦と殲滅戦のような相対する二極があることを認めて、自己の理論の中で包括しようとした

 モンテクッコリの戦争形式の変化

 モンテクッコリの生涯において彼の戦争形式は変化した。1648年まで彼は大胆な騎兵戦闘の指揮官であったが、独立した指揮権を手に入れるにしたがって、彼はより慎重になった。オーストリア常備軍がわずか歩兵9個連隊、騎兵10個連隊で構成され、訓練を積んだ補充兵力を得ることが困難であることを十分知っていたので、自分の部隊をつねに節約して使った
 ナポレオン以前の最も偉大なフランスの将軍と考えられたティレンヌに対する会戦が成功したのは、この戦略によってであった。

 国家安全保障の要としての常備軍

 彼は常備軍を国家安全保障の唯一のものとして考えていた。つまり、その安全保障によって「芸術や商業が繁栄し得るのであって、一方軍備を疎かにすれば国家の安全も保障されないし、国家の力も名誉もないのである」と考えていたのである。
 このことはオーストリアにとって特に重要なことであった。なぜならオーストリアのように多くの敵と直面しているヨーロッパの国はなかった」からである。
 モンテクッコリは、常備連隊を平時には幹部のみの編成としておき、開戦時に急遽補充する慣行には反対したが、受け入れられず1683年のトルコ軍によるウィーン包囲を招いた。
 彼の主要な遺産は、後継者のために彼がつくった模範の中にあり、何よりも彼の著作の中にあった。
 

Ⅵ モンテクッコリの軍事思想と近代戦略への貢献

 著作活動

 モンテクッコリの著作活動は三〇年間にわたっている。

最初の時期に彼は『戦闘論』と『戦争論』を、第二の時期に『戦争術』の概論を完成し、『戦闘論』の第二班を作成した。彼のもっとも有名な作品『ハンガリーにおける対トルコ戦争論』は『戦争術の格言』という題名でよく知られ、一六七〇年に完成し、彼は軍事理論家としての名声を確立したのである。

 帰納的思考法 

 モンテクッコリの思考法は帰納なものであった。
 「多くの古代人や現代人が戦争について書を著わしているが、大部分が理論の限界を超えていない。・・・結局、構成要素の部分を理解しなければ、全体を理解することは不可能である」。彼は、全体を通してこの研究方法を維持すると同時に、一般論と具体的事象が一体のものと見なされるようにする点で、その著作のすべては見事なほど一貫している。

 モンテクッコリの戦争観

 彼の宇宙、政治および戦争の見方は現実的なものであった。彼は戦争を大きな悪であると認めていたが、戦争は自然界の一部分であると見なした。彼は国家が反乱によって滅び得ることを警告し、軍事行動よりも社会的・政治的解決が望ましいと勧告した。
 彼は、戦争とは「相対する敵が相互に可能な限りの手段によって損害を与えようとする活動であり、戦いの目的は勝利を獲得することである」と把握していた。

 準備・計画・作戦運用の重要性

 戦争の性格や段階が何であろうと、その勝利は準備、計画および作戦運用によって左右されるであろう。戦争の準備は人力、装備や経済を含めたものであった。計画は彼我の部隊の戦力比、戦場、全体目標に依存するものであった。作戦運用は、あらゆる状況の下で、秘密裡に手早く、そして決断をもって実行されなければならないとした。
 モンテクッコリは自ら「万物の理法」と呼んだその作戦的格言をよく推敲して定式化し、これは後にフリードリヒ大王、クラウゼヴィッツおよびモルトケによって取り上げられた。行動に入る前に「慎重にものごとの軽重を判断してから、判断した事項を速やかに実行する」ことを彼は提言していた。しかし、前もってすべてを見積もることは不可能であり、いくつかの問題は「運に委ねねばならない」と述べた。

 理想の指揮官像

 また、モンテクッコリが理想とする指揮官は、勇武で、健康に恵まれ軍人らしい骨格を持つ者であった。彼は徳操が高く、分別があり、そしてなかんずく勇猛不屈の精神精力決断力を包含した資質としての「力」を持つべきであるとした。
 モンテクッコリは、戦略、作戦および戦術の明確な区分をしていなかった。彼はこれらを不可分な一体として見なしていた。
 彼の基本原則は「最後に手付かずの兵力を多数温存していたほうが戦いに勝つので」つねに予備戦力を保持することであった彼は戦闘準備の配置として、グスタフによって開発された”各兵種協同”のシステムを採用したが、”積極的防御”によって敵を弱体化させた後、主力を決定的な逆襲にのみ用いることを提言し、また直ちに追撃することを主張した。

 最も重要な貢献

 モンテクッコリは野戦指揮官および軍事行政官として名をなした。彼の将帥としての能力はフォラール、モールス・ド・サックスおよびフリードリヒ大王によって十分に評価されているし、またナポレオンは彼の1673年における会戦を傑出した機動戦略であるとみなした。しかしながら、モンテクッコリの最も重要な貢献は、軍事思想の領域にあったのである。

 戦争における不変の原則

 モンテクッコリは不変の原則を実証的研究によって見出そうとした合理主義者であった。この原則を適切に適用するならば、戦争は予知し得る結果を伴う一つの科学的進行となるであろうと彼は考えた。

 現代軍事戦略の祖

 さらに彼の研究は、戦争術の純粋な機械的側面に限定されることなく、士気、心理、社会および経済的な観点に基づく考察もなされた。モンテクッコリは戦争の見事な実践者であり、また想像力にあふれた理論家であった。
 彼はかつてマキャヴェリとリプシウスが述べ、それをマウリッツが適用しグスタフ・アドルフがさらに発展させた思想を自分の経験と統合し、包括的な知的構造を築き上げた。軍事革命の多くの異なった部分を統合化し、次世紀に対してその重要な概念を伝えることによって、彼の著書は現代戦略の発展に大きくかかわっている。
 
 

 番外編ー用兵思想家たちの言葉

 
ユスツス・リプシウス
「自然がある程度は勇敢な人たちを生み出す。しかしいっそうの精励を通じて良い秩序が生み出されればさらに強くなる」
 
ヴァレンシュタインをわが手に給うたことはいまやまさに真実であると信ずる」
 
レイモンド・モンテクッコリ
「誰でも指揮官や軍事評論家になりたがる」
 
「戦争が戦闘をすることなく遂行されるものだと思い違いをしている人々がいる。しかし、征服や紛争などの解決は戦闘によってしか達成できないし、その反対のことを信ずることは幻想にすぎない。」
 
「君主や国家は指揮官に速やかに行動し機会を利用し得ることができる自由裁量を与えなければならない。」
 
「私はこの簡潔な枠組みの中に、君主にとって死活的に重要な唯一の科学の広大な領域を包含するように試みた。そして、私はあらゆる科学が基づく基本的原則を見出すために最大限の努力を行った。・・・また、世界史の全範囲を考察したが、私はこれらの基本原則に適合していないと思われる著名な軍事的成功を一つも見いだせなかったと断言する。」